4月6日
学校へ行き用事を済ませる。
友人と駄弁りながら買い物へ行く。
「なーんか、春休み何にもしたくなくてねぇ」
僕も同じこと考えてた!
頭の中のクソ男が疼く。名前は……思い出せないなぁ。
家に帰ると高校の頃の友人から電話がかかってきた。
「いやー、なんか何もする気起きなくてね」
なんだ、みんな同じなのかよ。
「新しい生活への慣れじゃない?倦怠期なんでしょ」
「わかるけど1人で倦怠期って虚しいなぁw」
「恋人との倦怠期だって味わいたいもんじゃないでしょ」
あぁ、倦怠期で思い出した。と。
昔の知人達が大学生になって変わってしまったのだと。
内容はまぁ自分の周りでは聞いたことのないような大学生大学生したそれだった。あんまりにも周りで聞かないので実は一部のウェイ系だけなのかと思ったけれど、実情そんなことはなかったらしい。
自分の話も少しはしたが、自分が浮気をしていないということを信じてもらうのに1時間かかった。全く盛っていない。
友人の中ではもう「大学生はそういうものだ」と植え付けられてしまうほどに周りでは開放的な性が日常茶飯事なのだそうで。渋い現実。
大学生の頃は恋愛での失敗も許されるような風潮がある。(それを恋愛と呼んでいいのかは甚だ疑問ではあるけれど)
人間の本能として、性欲は三大欲求であるわけで。許されてしまえば性に奔放になる気持ちもわからなくはない。
高校生までは学校に1人2人ヤンキーくさいのがいても、大学生か社会人になれば姿を消してしまうのと似ている。
ただし大人になっても浮つきっぱなしの人間はこっそりゆらゆらしている。薄汚いブイみたいに。
何が違うかと言えば、前者は会社に入る時に社会からの弾圧を受けるわけだけれど、後者は隠し通せば痛い目を見ることも少ない。
人間、痛みを感じなければ善し悪しもわからないのかもしれない。
人類、誰も傷つかない性欲の処理をしてほしい。
最近よく考える"人は誰しも自分のことしか考えられない"というのは漫画フラジャイルに出てきたものだ。
自分本位で当たり前。他人と上手いところで折り合いを付けて生きていくべし。
誰も傷つかない(傷つけない)というのも結局自分の視点からの話でしかない。
多分、出来ることは「されて嫌なことは人にしない」くらいなんだと思う。
でも驚くほどに人の立場に立ってものを考えるのは難しい。
「もし自分がされたら」も適当に考えると自己正当化フィルタがかかって「そんなに嫌じゃないよな」と思ってしまいがちだ。
難しい。難しいよな。
されて嫌なことは人にしない。
されて嫌なことは人にしない。
自分は自分のことしか考えられない。
常に頭に置けば何か変わるかもしれない。
ところで。久々に話した友達が同じゲームをしていたので一緒に遊んだ。懐かしくて楽しかった。
やっぱり、どんどん変わっていく中でも変わらない方がいいこともたくさんあるんだろうな。
4月2日
「いただきますは宗教じゃん。なんか気持ち悪い」
と言った女の人が叩かれているのを思い出した。発言内容はうろ覚えだけど。
「日本人の文化でしょ」
「日本人なのにいただきますを言わないって何」
「挙句気持ち悪い??」
みたいな感じだったと思う。
まぁ後者の言うこともわかる。
文化って大事だ。昔の日本人が思いついたことが今もなお習慣として残っているのってすごいことだし。
自分は日本が好きだけれど、日本人であることに誇りを持ってとかあの辺の感覚はよく分からない。
女(男)に生まれて良かった〜とわざとらしく言う人みたいな感覚を覚える。
自分の人生こそが最高で最良だったみたいな、後悔をしないための自己正当化?自己最高化?のように聞こえてしまうのだ。
自分の性格がひん曲がってるだけなんだろうけど。
たまたま生まれたのがどっちかの性別で、たまたま生まれた場所が日本で。
自分に関することが好きになるのは生きやすくするのに大事なことだと思うし。
「フランスに生まれたかった〜」と後悔しても仕方ない。
「日本が嫌い」なんてわざわざ生きにくくする人なんか見ないし、恐らくドMだ。
とはいえ、日本に誇りを持つというのはやはりよく分からない。
行き過ぎている気がしてしまうんだよな。
それこそ「なんか気持ち悪い」みたいな。
いただきますが宗教的というのは自分も思う。
もちろん普通に「いただきます」と「ごちそうさまでした」は言う。
多分対象はご飯を作ってくれた人だとか。お金を出してくれる人だとか。そこにある命にだとか。
でも正直大抵が習慣としてやっていることで、常に本来の意味を意識しながらやっているわけではない。
「いただきまーす」(お腹空いた〜!めっちゃいい匂いする!はよ食べよ!!)
くらいしか考えていない。
空腹時に目の前に美味しいご飯が置かれた人間の思考レベルなんてそんなものではないだろうか。
「いただきます」が宗教的だと思う理由はここにある。
いただきますって何のためにやってるの?と聞かれれば、命のためにだとか調理する人に感謝してだとか答えられる人は多いだろう。
ただしいつも意識しながらやっている人はそこまで多くないのではないかと思う。
いやそもそも、感謝というのは強要されてすることではなくて。ありがてぇ!って思った時にするものではないのか。
食材に対する感謝の気持ちを忘れないためにだとか言ってしまえば形は良いが、三大欲求を満たそうとする動物の前ではそんなの二の次で結局忘れてしまいがちなのではないか。
もちろんいただきますが悪いものだとは全く思わない。
ただ、「いただきますをしないのは教養がない」だとか言うのは少し違う気がする。
している人を褒めることはあっても、しない人を貶すというのはおかしくないだろうか。
食前に八百万の神に感謝し、手を合わせ、みんなで一緒に唱える「いただきます」は宗教的であると思う。
「いただきますは宗教的でキモイ」と言った女の人も、わざわざ言う必要があったかは置いておいて、そんなに間違ったことは言っていないと思うのだ。
それに対して「日本人だからいただきますしろ!」と言うのはなんだかもっと宗教的ではなかろうか。
「日本は無宗教だ!」ではない。
無宗教を名乗るのならば、もっとみんな自由で良いのではないだろうか。
言いたくないなら言わなきゃいい。
言いたい人が言えばいい。
人間、能動的に動くべきで。やりたいことをやるべきで。
言われたことをただするのは考えることを放棄しているだけである。
日本人だから〇〇すべき。という押し付けはもはや宗教だ。
三題噺01
ティッシュとスリッパと充電器
「よくも!まちのみんなを殺したな!ゆるさないぞ!かいじん28号!」
覚えたての拙い日本語が暗い夜空にキラキラと走り出していく。
開いた窓から入ってくる空気は冷たい。
手を止めて声の方へ目をやると、太一先生とリュウト君が向かい合って戦闘態勢に入っていた。
リュウト君は両足に空になったティッシュの箱を履き、おもちゃの剣を構えている。
子どもはおもちゃをよく見つけてくるものだ。
あの箱を履きたくなる気持ちはわかるが、どう見ても動きにくそうだが。
対する男は履いていたスリッパを両手に持ち、一昔前のカンフー映画の主役のように腕をぐるぐる回している。
「ハッ、貴様のようなチビに、なぁにが出来ると言うのだ」
ドスを効かせた悪者声で笑う180cmの男は、ヒーローになりたい100cmの男の子よりもガキんちょにしか見えない。
背が高いのは大抵プラスステータスになるはずのものだが、お世辞にもカッコイイと言える顔をしていない彼にその身長は不釣り合いだった。
真顔は怖く、入ったばかりの園児にはちょくちょく泣かれている。
しかし彼は園児に対しては本気で、大人から見れば痛々しく感じるくらいのバカになるので、打ち解けるのも一番早い。
しかしこの園児と真っ先に仲良くなるバカで不細工ででっかい男は、大人がどうにも苦手なようで園の先生達と打ち解けているところは見たことがない。
嗚呼面倒くさし、大人の人間関係。
「あーー!りゅーとだけズルい!!」
彼らの壮絶な戦いも山場に差し掛かったと思われる頃、ご飯を食べ終えた男の子達が楽しそうな声を聞きつけて集まってきた。
「フンッ、お前らのようなチビ共がいくら集まっても俺様に適うわけがない。まとめてかかってこい!!」
悪役に徹するあまり、吐く言葉は親達に聞かれたらクレームものである。
というか実際に何度か親からのクレームが来たこともある。大人に嫌われるのは宿命であるようだ。
はぁ、と息を吐き時計を見る。そろそろだ。
「はいはい、もうバスの時間ですよ。準備してくださいね」
太一先生の上に乗って切りかかる男の子達を1人ずつめりめりと剥がす。
「えー、もう?」
「あとちょっとで倒せたのにー」
剥がされた子達はぶーぶーと文句を言いながらもおもちゃを持って元あった場所へと返しに行く。
最後には疲れ果ててぜえぜえ息を吐く先生だけが倒れたまま残っていた。
「いっつも無茶しすぎですよ。子どもじゃ無いんだから」
声をかけ手を伸ばすと、無邪気な笑顔と目が合った。
「いやぁ、楽しくってつい」
「親御さんからクレームが来たらどうするんです?またみんなに叩かれますよ」
それは困っちゃうなぁ、と笑う声に悪びれる様子はない。
そんなんだから嫌われちゃうんですよ、と
もう少し反省したらどうですか、と
出したい言葉をぐっと飲み込む。
嫌われることを恐れないのは彼の良いところではあるが、見ているこっちの気持ちにもなってほしい。
「あっ」
ロッカーの扉を開けた彼は突然大きな声を出した。
「どうしました?」
「充電器壊れてたから買いに行かないとなの忘れてた」
こちらに電源のつかないスマホを向けて言った。
「えぇ、昼休みに買いに行ってくれば良かったのに」
仕方のない人だ。
「いやぁ、その時はナオキ達と隠れんぼしてて……」
いつだって子どもが最優先。
「じゃあ、帰りに一緒に探しましょう」
仕事が終わってこっちはヘトヘトなのに。
「ありがと雪ちゃん!」
彼はいつだってフル充電で元気に笑う。
「あの、ここでは先生って呼んでくれませんか」
そういう所が好きなんだろう
「あぁそうでした!さぁ、後片付けやっちゃいますか!リュウトのかっけーティッシュボックス見ました?多分どっかに中身捨てられてますよ」
「……」
3月13日
人の真似をする人間から醸し出される薄っぺらさは、本質を捉えきれていないからなのかもしれない。
人はいつも理想を追って生きる。
文章というのは、人からの影響を強く受けやすい。
特徴的な文章を書く頭のいい人はよく真似をされやすい。けれど、字面がいくら似ていても本人以外の文章の胡散臭さったらない。
そういえばちょうど今日テクネーとゲシュテルの話をTwitterで見かけた。同じようなことなのだろうか。
読みやすい文や特徴的な文には確かに書き手の個性が滲み出る。自分は、個性的な文に惹かれるのではなくてそこから滲み出る個性に惹かれる。だから形式だけ寄せても元の書き手の個性が損なわれ、見ているだけでこっぱずかしい気持ちになるのだ。
真似するだけの二番煎じはつまらない。
テクネーとゲシュテルの辺りに戻る。
自分には慕っている哲学科の先生がいる。
テクネーとゲシュテルの概念を知った時まず初めにその先生の顔を思い出した。
何か話題があればいつでもメールで話を聞いてくれると言ってもらっていたのだ。どうにか新しい哲学の概念を自分の周りの問題と結び付けられないかと考えてみたがなかなか難しかった。
自分は哲学を学ぶのは好きだが、詳しくはない。
食材の調達ついでにショッピングモール内の書店を物色した。
哲学用語等を探してみれば、ビビっと来るものがあるかもしれないと。
しかし気がつくとデザインの本を眺めていた。
まぁ、こんな感じだからいつまでも哲学に対して詳しくはなれないのだ。
自分はどうしても哲学にも二番煎じ的なイメージを持ってしまう。
人間である以上、同じ思考を辿るのは当然のこととして。にしても、哲学者の意見は既にこの世に確在するもので、後から自分がそれに似たものを思いつき話したとてそれは二番煎じとして扱われてしまう。
哲学用語は物事を説明する際には有効であれど、似通った別意見を潰してしまいかねないのではないか。
哲学用語の説明は難解な文章で書いてあることも多く、その真意は当人にしかわからない。
それを多くの人が何とか解釈しようとすれば幅が生まれるのも無理がなく、真意とはまた違った発想もそこに収縮されかねないのではないか。
だから哲学が良くないと言いたいわけではなく、取り扱いには注意すべきではないかという話である。
あぁ、この話を先生にすれば良いのか。
そんな気がしてきたぞ。
平和のくすり
どこかの国のお偉いさんが、とんでもない発明をした。
故意に誰かを傷つけたら、同じだけの痛みが返ってくる薬。
怪しすぎるその話はたちまち世界中に広まって、どうやら本当らしいとわかってから、薬が世界に広まるのはあっという間のことだった。
導入をする国もしない国もできない国もあったけれど、私たちの国は半年前、この薬の投与を義務化した。
これでこの国は平和になるのだと豪語して。
私はただの学生なので詳しいことは身の回りのことくらいしかわからないけれど。
でもこの半年でこの国はたしかに変わった。
初めの1ヶ月でこの薬で人が1万人死んだ。
半分以上は自殺だった。
自分の与えていた痛みが自分では耐えられないほどのものだったのだろうか。
あまりの生きづらさに絶望したのだろうか。
その1ヶ月をすぎてからは死ぬ人がぐっと減った。
まず殺人事件が少なくなった。
自殺目的の殺人事件なんてバカなこともあるにはあったけれど、それを含めても随分と減った。
国からすればこれが平和なのだろう。
いろんな声が飛び交う中でも薬の義務化をやめる気はなさそうだ。
私の周りだったら、まずわかりやすくいじめが綺麗になくなって。陰口だってもう言う人はいない。
みんな初めは返ってくる痛みと傷つけられないもどかしさで疲れきった顔をしていたけれど、なんだかんだ慣れたようで今ではみんな常に笑顔になった。
半分くらいに減ったクラスメイトも、クラスの統一があって今では同じくらいの人数に戻った。
家に帰ると誰もいなくなった。
お母さんも、お父さんも、お姉ちゃんも。
私の体はもう痛くなくなった。
でもずっと悲しかった。
この薬のダメなところは故意じゃなきゃ意味が無いところ。
この薬を作った人はあんまりにも無神経で、思いやりがないんだろう。
じゃなきゃとっくに死んでいる。
私の痛みで殺しているはずなのに。
この国はすごく平和になった。
私はクラスでも家族からもいじめられなくなった。
たしかに死んでしまいたいほど毎日が苦しかった。
でもいなくなれとは思ったことなんてなかったのに。
今私には死んででも殺したい人がいる。
でもその人はどこにいるかわからなくて、わかったとしても会いに行けるお金もない。
ああ、ただ一度、はっきり目を見て「早く痛みに気がつけよ」と言えたなら
死について考えていたらよくわからなくなった話
死というのは生命の終わりだ。
死という存在は人間に強い恐怖を与えるが、そのおぞましい存在こそが、確実に終わりが存在するという事実こそが、生きることを輝かせているのだと思う。
死は私達の日常にありふれている。
ニュースで人が死んだ報道を聞かない日はないだろう。
気が付いていないだけで、虫の死骸ならそこら中にある。見かけることだって少なくはないはずだ。
なんなら私達の体の中でも、今、細胞が次々と死んでいっている。あ。ほら、またあなたを構成するあなたの細胞が死んだ。
このように死はとても身近な存在であるはずなのだ。しかし、何かの死に直面した時私達は本当にそれを死として捉えているだろうか。虫の死骸を見て、自分もいつかそうなるということをちゃんと理解しているのだろうか。
死が身近なようで遠い存在になっているのは、ただ見ないようにしているだけなのだ。
死はすべての生き物に平等に訪れる。人間もいつかは死ぬ。必ず死ぬ。死に急ぐ必要はない。しかし生きなければいけない理由もない。
人間は生と死の選択肢を持っている。
今飛び降りたら死ねる。今この包丁で首を切れば死ねる。今この電車の前に飛び出せば死ねる。
人間は簡単に死ぬ。あなたもいつだって、本気で死のうと思えば死ねるのだ。
しかしそれは生きている間だけの話であり、死んでしまったら生きることを選択することはできない。
死はやり直しのきかない、一生に一度の大切な選択肢であるのだ。
だが、死は当たり前のことで、生命のサイクルの一環でしかない。
恐れることも悲しむこともない。
人によって少し早かったり遅かったりはするがそれも大した問題ではない。
人生に価値などないのだ。
生物はただ生まれて死ぬだけ。その繰り返しを延々と繰り返していて、その繰り返しの中にいるだけで。自分や周りの人間の死は大きなことのようで客観的に見ればささいなことなのだ。
死にたいなら死ねばいい。
死にたくなくても死ぬ時は死ぬ。
自分の死ぬ時を選ぶのも権利の一つだ。自分の人生なんだから生きるも死ぬも自分の好きにすればいいのだ。親であってもそれをどうこうする権利はない。
親は子どもの死を止めたり、逆に子どもを殺したりする。どちらも彼らのエゴである。身内が死ぬことが嫌だから止めるのはわかるが、それが正しいとは一概には言えない。
子どもはみな親から生まれた。親が気持ちいいことをした結果に出来たものだ。
"死ぬほど痛い思いをして産んだのだから勝手に死ぬのは許さない"などと言う人もいる。言っていることはわかる。しかし彼らは理解をしているのであろうか。
自分たちの作ったものは意思を持ち、心を持つ、人間なのだということを。無機質な物とは全く違う、命であるのだ。
子どもは親の物ではない。産み出したその瞬間から子どもは子ども自身のものなのだ。
確かに最初は親が育てなければ生きてはいけない。大変な思いをして育てたのだろう。育ててくれたことには感謝をしている。
しかし育児は当たり前のことだ。
サルだって、自分の子どもを育てる。
それをさも素晴らしいことのように、お前をここまで育ててやったのは私だなどと言う親は、サルと同レベルのことをやって誇りを持っているのと同じである。
子どもも大人と同じ生き物である。少し長く生きているだけでどうしてそこまで偉そうにしているのだろうか。それではお前らは亀に尊敬の意を抱いているのだろうか。
子どもも大人もみんな、生きて死ぬだけの生物なのだ。生まれたことに意味はなく、死んでいくことに意味はない。そこに価値を見出すかどうかなど個人の問題であって、自分にとって価値があろうが無かろうが、どんな偉業を成し遂げようがどれだけ罪を犯そうが、全ての人類は等しく尊くて醜い。それが人間なのだ。
例えば誰かが人類を滅ぼしたとしよう。この世の全ての生き物を滅ぼしたとしよう。そこに何の意味があって何の価値があるのだろうか。
生命のサイクルは生命のサイクルであってそれ以上でもそれ以下でもなく、終わったところで何にもならない。
宇宙のどこかでまた新たな生命が生まれるかもしれない。生まれないかもしれない。しかしそれに意味はない。理由もない。価値もない。全ての事象にそれが在るということ以外の事実はないのだ。
人間には感情や理性があるがため、死が、別れが、終わりが、無が、知らないことが、怖い。
人間は色々なことを知ろうとして研究する。
知ったところでそれは知ったつもりになっているだけなのかもしれないし本当にそれが事実なのかなど誰にもわからない。
様々なものに名前をつけ、理屈をつけ、説明をつける。事実か否かではなく、なんとなく事実のように自分に言い聞かせる。とにかくわかったつもりになりたいのだ。
理解のできないことが怖いから。
そもそも人間に何が理解できると言うのだろうか。人間の作った言語などでこの世界の何%を理解できると言うのだろうか。0.1%でも理解できていると思うのならそれは馬鹿馬鹿しい勘違いであろう。理解しようとしていること自体が間違いなのだ。ああ本当に馬鹿馬鹿しい。
人間は長い間をかけて、たくさんのことを理解してきた。つもりでいる。しかしそれは何にもならない。次の世代にそれを教えて何になるというのか。次の世代もその次の世代も死ぬ。死は全ての終わりなのだ。そもそも何も始まっていないのかもしれないが。たった100年ほどの人生を送るのにその情報は必要なのだろうか。本能としての食べることや逃げることさえあれば生きていけるのに。充実した幸せな生活を送るためだろうか。知ることは幸福なことなのだろうか。どうせ死ぬのに。
自分が死んでしまったら、そこで世界は終わる。後世に何かを遺したところで後世が本当に存在するのかを知る術もない。私達の当たり前がこの世界の当たり前と同じであるかはわからないのだ。
それでもきっと、自分が死んでも世界は続くだろう。しかしその事実に何の意味があるのだろうか。そこに自分はいないのに。
自分本位で、自分だけ良ければそれで良くて、とにかく今だけを楽しむ人間がいる。そういう人間は基本的に忌み嫌われがちであるが、そういう姿こそ人間的なのではないだろうか。誰かのために生きることは良いことかもしれない。でもその誰かは本当に存在しているのかもわからないし、自分の人生を他の人のために使うのが正しいとは言い切れないだろう。そもそも正しいか正しくないかだって人間が勝手に決めたことだ。
人間などちっぽけで無駄で無意味な存在なのだ。だが自分にとっては一度きりの人生で、それが自分の全てなわけである。
いつ死んでも後悔のないようにめいっぱい生きたらいい。
自分の人生、自分の好きなように使えばいい。