3月13日

人の真似をする人間から醸し出される薄っぺらさは、本質を捉えきれていないからなのかもしれない。

人はいつも理想を追って生きる。
文章というのは、人からの影響を強く受けやすい。
特徴的な文章を書く頭のいい人はよく真似をされやすい。けれど、字面がいくら似ていても本人以外の文章の胡散臭さったらない。
そういえばちょうど今日テクネーとゲシュテルの話をTwitterで見かけた。同じようなことなのだろうか。

読みやすい文や特徴的な文には確かに書き手の個性が滲み出る。自分は、個性的な文に惹かれるのではなくてそこから滲み出る個性に惹かれる。だから形式だけ寄せても元の書き手の個性が損なわれ、見ているだけでこっぱずかしい気持ちになるのだ。

真似するだけの二番煎じはつまらない。

テクネーとゲシュテルの辺りに戻る。

自分には慕っている哲学科の先生がいる。
テクネーとゲシュテルの概念を知った時まず初めにその先生の顔を思い出した。
何か話題があればいつでもメールで話を聞いてくれると言ってもらっていたのだ。どうにか新しい哲学の概念を自分の周りの問題と結び付けられないかと考えてみたがなかなか難しかった。
自分は哲学を学ぶのは好きだが、詳しくはない。

食材の調達ついでにショッピングモール内の書店を物色した。
哲学用語等を探してみれば、ビビっと来るものがあるかもしれないと。

しかし気がつくとデザインの本を眺めていた。
まぁ、こんな感じだからいつまでも哲学に対して詳しくはなれないのだ。

自分はどうしても哲学にも二番煎じ的なイメージを持ってしまう。
人間である以上、同じ思考を辿るのは当然のこととして。にしても、哲学者の意見は既にこの世に確在するもので、後から自分がそれに似たものを思いつき話したとてそれは二番煎じとして扱われてしまう。
哲学用語は物事を説明する際には有効であれど、似通った別意見を潰してしまいかねないのではないか。
哲学用語の説明は難解な文章で書いてあることも多く、その真意は当人にしかわからない。
それを多くの人が何とか解釈しようとすれば幅が生まれるのも無理がなく、真意とはまた違った発想もそこに収縮されかねないのではないか。

だから哲学が良くないと言いたいわけではなく、取り扱いには注意すべきではないかという話である。

あぁ、この話を先生にすれば良いのか。
そんな気がしてきたぞ。

平和のくすり

どこかの国のお偉いさんが、とんでもない発明をした。

故意に誰かを傷つけたら、同じだけの痛みが返ってくる薬。

怪しすぎるその話はたちまち世界中に広まって、どうやら本当らしいとわかってから、薬が世界に広まるのはあっという間のことだった。

導入をする国もしない国もできない国もあったけれど、私たちの国は半年前、この薬の投与を義務化した。
これでこの国は平和になるのだと豪語して。

私はただの学生なので詳しいことは身の回りのことくらいしかわからないけれど。
でもこの半年でこの国はたしかに変わった。

初めの1ヶ月でこの薬で人が1万人死んだ。
半分以上は自殺だった。

自分の与えていた痛みが自分では耐えられないほどのものだったのだろうか。
あまりの生きづらさに絶望したのだろうか。

その1ヶ月をすぎてからは死ぬ人がぐっと減った。
まず殺人事件が少なくなった。
自殺目的の殺人事件なんてバカなこともあるにはあったけれど、それを含めても随分と減った。

国からすればこれが平和なのだろう。
いろんな声が飛び交う中でも薬の義務化をやめる気はなさそうだ。

私の周りだったら、まずわかりやすくいじめが綺麗になくなって。陰口だってもう言う人はいない。
みんな初めは返ってくる痛みと傷つけられないもどかしさで疲れきった顔をしていたけれど、なんだかんだ慣れたようで今ではみんな常に笑顔になった。

半分くらいに減ったクラスメイトも、クラスの統一があって今では同じくらいの人数に戻った。

家に帰ると誰もいなくなった。

お母さんも、お父さんも、お姉ちゃんも。

私の体はもう痛くなくなった。
でもずっと悲しかった。

この薬のダメなところは故意じゃなきゃ意味が無いところ。
この薬を作った人はあんまりにも無神経で、思いやりがないんだろう。

じゃなきゃとっくに死んでいる。
私の痛みで殺しているはずなのに。

この国はすごく平和になった。

私はクラスでも家族からもいじめられなくなった。
たしかに死んでしまいたいほど毎日が苦しかった。
でもいなくなれとは思ったことなんてなかったのに。

今私には死んででも殺したい人がいる。
でもその人はどこにいるかわからなくて、わかったとしても会いに行けるお金もない。

ああ、ただ一度、はっきり目を見て「早く痛みに気がつけよ」と言えたなら

死について考えていたらよくわからなくなった話

死というのは生命の終わりだ。
死という存在は人間に強い恐怖を与えるが、そのおぞましい存在こそが、確実に終わりが存在するという事実こそが、生きることを輝かせているのだと思う。

死は私達の日常にありふれている。
ニュースで人が死んだ報道を聞かない日はないだろう。
気が付いていないだけで、虫の死骸ならそこら中にある。見かけることだって少なくはないはずだ。
なんなら私達の体の中でも、今、細胞が次々と死んでいっている。あ。ほら、またあなたを構成するあなたの細胞が死んだ。

このように死はとても身近な存在であるはずなのだ。しかし、何かの死に直面した時私達は本当にそれを死として捉えているだろうか。虫の死骸を見て、自分もいつかそうなるということをちゃんと理解しているのだろうか。
死が身近なようで遠い存在になっているのは、ただ見ないようにしているだけなのだ。

死はすべての生き物に平等に訪れる。人間もいつかは死ぬ。必ず死ぬ。死に急ぐ必要はない。しかし生きなければいけない理由もない。

人間は生と死の選択肢を持っている。
今飛び降りたら死ねる。今この包丁で首を切れば死ねる。今この電車の前に飛び出せば死ねる。
人間は簡単に死ぬ。あなたもいつだって、本気で死のうと思えば死ねるのだ。

しかしそれは生きている間だけの話であり、死んでしまったら生きることを選択することはできない。
死はやり直しのきかない、一生に一度の大切な選択肢であるのだ。

だが、死は当たり前のことで、生命のサイクルの一環でしかない。
恐れることも悲しむこともない。
人によって少し早かったり遅かったりはするがそれも大した問題ではない。

人生に価値などないのだ。

生物はただ生まれて死ぬだけ。その繰り返しを延々と繰り返していて、その繰り返しの中にいるだけで。自分や周りの人間の死は大きなことのようで客観的に見ればささいなことなのだ。

死にたいなら死ねばいい。
死にたくなくても死ぬ時は死ぬ。

自分の死ぬ時を選ぶのも権利の一つだ。自分の人生なんだから生きるも死ぬも自分の好きにすればいいのだ。親であってもそれをどうこうする権利はない。

親は子どもの死を止めたり、逆に子どもを殺したりする。どちらも彼らのエゴである。身内が死ぬことが嫌だから止めるのはわかるが、それが正しいとは一概には言えない。

子どもはみな親から生まれた。親が気持ちいいことをした結果に出来たものだ。

"死ぬほど痛い思いをして産んだのだから勝手に死ぬのは許さない"などと言う人もいる。言っていることはわかる。しかし彼らは理解をしているのであろうか。
自分たちの作ったものは意思を持ち、心を持つ、人間なのだということを。無機質な物とは全く違う、命であるのだ。

子どもは親の物ではない。産み出したその瞬間から子どもは子ども自身のものなのだ。
確かに最初は親が育てなければ生きてはいけない。大変な思いをして育てたのだろう。育ててくれたことには感謝をしている。
しかし育児は当たり前のことだ。
サルだって、自分の子どもを育てる。
それをさも素晴らしいことのように、お前をここまで育ててやったのは私だなどと言う親は、サルと同レベルのことをやって誇りを持っているのと同じである。

子どもも大人と同じ生き物である。少し長く生きているだけでどうしてそこまで偉そうにしているのだろうか。それではお前らは亀に尊敬の意を抱いているのだろうか。

子どもも大人もみんな、生きて死ぬだけの生物なのだ。生まれたことに意味はなく、死んでいくことに意味はない。そこに価値を見出すかどうかなど個人の問題であって、自分にとって価値があろうが無かろうが、どんな偉業を成し遂げようがどれだけ罪を犯そうが、全ての人類は等しく尊くて醜い。それが人間なのだ。
例えば誰かが人類を滅ぼしたとしよう。この世の全ての生き物を滅ぼしたとしよう。そこに何の意味があって何の価値があるのだろうか。

生命のサイクルは生命のサイクルであってそれ以上でもそれ以下でもなく、終わったところで何にもならない。
宇宙のどこかでまた新たな生命が生まれるかもしれない。生まれないかもしれない。しかしそれに意味はない。理由もない。価値もない。全ての事象にそれが在るということ以外の事実はないのだ。

人間には感情や理性があるがため、死が、別れが、終わりが、無が、知らないことが、怖い。

人間は色々なことを知ろうとして研究する。
知ったところでそれは知ったつもりになっているだけなのかもしれないし本当にそれが事実なのかなど誰にもわからない。
様々なものに名前をつけ、理屈をつけ、説明をつける。事実か否かではなく、なんとなく事実のように自分に言い聞かせる。とにかくわかったつもりになりたいのだ。
理解のできないことが怖いから。

そもそも人間に何が理解できると言うのだろうか。人間の作った言語などでこの世界の何%を理解できると言うのだろうか。0.1%でも理解できていると思うのならそれは馬鹿馬鹿しい勘違いであろう。理解しようとしていること自体が間違いなのだ。ああ本当に馬鹿馬鹿しい。

人間は長い間をかけて、たくさんのことを理解してきた。つもりでいる。しかしそれは何にもならない。次の世代にそれを教えて何になるというのか。次の世代もその次の世代も死ぬ。死は全ての終わりなのだ。そもそも何も始まっていないのかもしれないが。たった100年ほどの人生を送るのにその情報は必要なのだろうか。本能としての食べることや逃げることさえあれば生きていけるのに。充実した幸せな生活を送るためだろうか。知ることは幸福なことなのだろうか。どうせ死ぬのに。

自分が死んでしまったら、そこで世界は終わる。後世に何かを遺したところで後世が本当に存在するのかを知る術もない。私達の当たり前がこの世界の当たり前と同じであるかはわからないのだ。
それでもきっと、自分が死んでも世界は続くだろう。しかしその事実に何の意味があるのだろうか。そこに自分はいないのに。

自分本位で、自分だけ良ければそれで良くて、とにかく今だけを楽しむ人間がいる。そういう人間は基本的に忌み嫌われがちであるが、そういう姿こそ人間的なのではないだろうか。誰かのために生きることは良いことかもしれない。でもその誰かは本当に存在しているのかもわからないし、自分の人生を他の人のために使うのが正しいとは言い切れないだろう。そもそも正しいか正しくないかだって人間が勝手に決めたことだ。

人間などちっぽけで無駄で無意味な存在なのだ。だが自分にとっては一度きりの人生で、それが自分の全てなわけである。
いつ死んでも後悔のないようにめいっぱい生きたらいい。
自分の人生、自分の好きなように使えばいい。

はじめに

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自分の思ったこととか、140文字じゃ書き切れないことをつらつら書こうと思います。自己満足です。

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